浅き夢の世界へ

カテゴリー: 社会・政治 (3ページ目 (4ページ中))

ゆとり教育は正しい?

 ゆとり教育を擁護していますが、決して正しいとは思ってません。ゆとり教育って、週休2日にして、難しいことを教えなくてもよくして、総合学習を取り入れたってくらいのイメージなんです。で総合学習のねらいなんですが

・自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。
・学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること。
・各教科、道徳及び特別活動で身に付けた知識や技能等を相互に関連付け、学習や生活において生かし、それらが総合的に働くようにすること。

らしいです。総合学習の無かった私たちにはこれらのことが欠けているのですね?ってかなりバカにされている気持ちです。こんなこと、学校の授業時間にすることやない。家庭や地域やいろんなとこから学べば良い。家庭や地域に力がなくなってきているのなら、そこを活性化する方策が必要では?土曜日の授業を休みにするなら、その分、地域の力で教育してもらうようなシステムが理想的ではないかと思います。他の省庁とも連携して法整備すれば不可能ではないと思います。
 詰め込み教育からの脱却を目指し進められたゆとり教育は、ゆとりを詰め込みすぎたためうまくいかなかったと思います。しかし、大人になっても追い詰められているような毎日、せめて子どもの教育にはゆとりが必要だと思います。(次回最終回?)

餃子を作る家庭

 小学校の頃、従兄弟の家に遊びに行ったとき、晩ご飯のおかずが餃子でした。餃子を包むのが従兄弟たちの仕事でした。それまで、男が料理を手伝うという意識が自分には無かったので結構ビックリしました。そのときは、私も兄とともに手伝って結構楽しかったのを覚えています。少し前友達と話していて、そこも家庭で餃子を作るが包むのは子どもの仕事だったと言っていました。一方、私の家では焼くだけのを買ってきてました。これは、うちの母がサボっていたわけではなく、農作業で忙しいのでなるべく簡単にできるものを作っていたわけです。そして、ぼくらは料理手伝う代わりに農作業を手伝ってた訳ですね。
 子どもに家の手伝いをしてもらうのは良い事だと思います。家で仕事しているところは、それを手伝ってもらえば良い。本来はこれがノーマルだったのでは、と思います。しかし、サラリーマン家庭なんかの場合はそんなことできないので、家事を積極的手伝ってもらうことになるのでしょうね。とすると、商店街が潰れ、おつかいが頼めない等の場合も、これと同じで別の方法を考えるしかないでしょう。
 学力の低下のこと考えていてなんかどんどん脱線しているような気がします。一応まとめると・・・

 ・何気ないことが子どもの社会性を高める効果があった。
 ・そのような学習の場が無くなってきた。
 ・社会性の無い子どもが増える。
 ・昔のように授業が成り立たない。
 ・学力が低下する。
 ・保護者や教育者に理由が思いつかない。

こんなとこでしょうか。これは私の単なる思いつきです。決して鵜呑みにしないでくださいね。しかし、理由が思いつかないからとりあえずゆとり教育の責任にしているような気がします。そんな、単純なものではないと言うのが私の考え方なんです。(続けます。多分・・・)

早ね早おき朝ごはん

 「早ね早おき朝ごはん運動」というのが展開されているようです。この標語を聞いたとき文部科学省もやるやんって思ったのですが、普通に考えれば当たり前のことですね。こんな簡単で大切なことをみんな知らないのでしょうか?勿論、知っているはず。私なんか子どもの頃から、早く寝なさい、早く起きなさい、ちゃんと朝ごはんたべなさいって怒られて育ったと思います。しかし、そうしない結果は、はあまり知られてなかったのかもしれません。子どもたちの集中力が無くなったり、暴力的になったり、勉強にも運動にも悪影響を与えていると・・・。
 では自発的に「早ね早おき朝ごはん」はできなかったのでしょうか。勿論、家庭によっては不可能なとこもあると思います。しかし大半は♪分かっちゃいるけど止められない♪状態になっているのではないでしょうか。世の中が便利になり簡単に欲求を満たすことができるようになると、大切だと分かっていることもできなくなるようです。では、前の記事のように大切だと意識してないけど実は大切だったことに関してはどうか?もう、絶望的だと思います。
 こうなれば、以前から大切だと思っていたが現在できていないこと、大切かどうかも分からないけど現在消えてしまったこと、どちらも重要性を再検討しないといけないと思います。そして、重要であれば実践するのみ!しかし現在消えてしまったものをどうやって実践・・・?(誰か続けてください)

初めてのおつかい

 昔、子どもがおつかいに行く様子をテレビで番組にしていた記憶がありますが、今もその類の番組やっているのでしょうか?テレビを見ないので分かりません。私の実家は田舎ですが、以前は近所に食料品を売っている雑貨屋、駄菓子屋、肉屋、鶏肉屋がありました。今は全部潰れています。
 小さい頃に親から頼まれておつかいに行きましたが、これって、社会性発達のトレーニングになっていたのではないかと思います。商売や社会の仕組み、店の人とのやり取り、無い時の対応などいろいろ学び実践することが出来る場だったのではないでしょうか?
 近くの駄菓子屋ではよくお菓子買いに行きました。おばちゃんとのやり取りがいろいろ面白かったと記憶してます。駄菓子屋には椅子など座って食べるスペースが用意されてました。友達とそこで話しをしたり、帰る途中の中学生のお兄さんと話したり、そんな記憶があります。コンビニなんかで地べたに座って食べたり話したりしている子どもを見た大人が行儀が悪いと思われるようですが、多分、私たちのような経験をしたことがないのだと思います。
 自然に生活する中で、社会性を育むためのトレーニングができたとすると、今の大人はそのことの大切さに気付けないような気がします。便利さや、経済性を追い求めたためにそのようなシステムをことごとく壊してしまい、同じように生活しているつもりでも結果が違ってしまうわけです。便利さの副作用とでも言えば良いのでしょうか?他にもいっぱいありそうですね。(続け!)

ルールが守れない?

 仕事で子どもの遊び教室のようなものを実施していて、思うのですが、今の子どもはルールのある遊びが苦手なんですね。例えばドッジボールやっても、当たっても外に出ない子どもがいます。他の子どもや学生スタッフに言われて外に出るわけですが、昔の子どもは自ら進んで外に出るくらいの勢いがあった気がします。鬼ごっこで凍りオニって言うのがあるのですが、それを見ていると顕著です。凍ってなければならない子どもがいつの間にか動いていたりします。ルールを守る意識が希薄っていうか、ばれなければいいって言うか、子どもの時に積極的に学ばなければならない社会性が、学べてない子どもが多くなっているような気がします。授業中にしゃべったり、歩いたり周りのことを考えない行為はまさに社会性の欠如だと思います。
 ルールを守れない。「大学生でもそうやで」って、大学の先生から言われました。保護者や周りの大人もそんなとこあるのではないでしょうか?最近では、高等教育をしなければならない先生たちが守らなければならないルールを簡単に破っていたわけです。子どもって自分たちの周りから敏感にいろんなことを感じ取って成長していくと思うのですが、そこが昔と比べるとガタガタなんじゃないかと思います。なぜ、そうなったかも考える必要があるかもしれません。(続くかな?)

保護者の責任?

 学力低下について次のように考えるとします。

 ・小学校に入るまでに必要なことが出来てない。
 ・担任が対応に追われ小学校で教えることが滞る。
 ・結果、学力が低下する。

 保護者の教育をしなければならないと有識者の方が言っておられました。私も「うん、そのとおり」と聞いてたのですが、実際には今の保護者ってどうなんって考えたとき、あれって頭をひねりました。私は今35歳なんですが、同じくらいの年代の方が多いのではないでしょうか?で、小学校〜大学までの同級生を思い出してみても、必要なことを子どもに教えられないような同級生が思いつかない。乱暴な人間もいたし、おとなしい人間もいた。もうちょっとがんばらなあかんのとちゃう?と思うようなのもいましたが、家庭での教育不足とそれほどつながらないんです。中には離婚して働きながら子育てしてて、子どもになかなか手が回らないって例もあると思いますが、そんな家庭ばかりじゃないし、そのような場合、学校側も対応を取り易いと思います。
 保護者が意図的に家庭での教育をサボっているわけではない。昔と比べれば若干サボっている面もあるかもしれませんが、時代が変わって昔ならしなくて良いことをしなければならなくなった場合(共働き等)も考えられます。虐待なんかも、できないことに恥を感じ焦った保護者が方向を間違えたために起こると思うんです。裏返せば、何とか学校行くまでの早いうちに対処しようという気持ちの表れかもと思います。ここまで考えると、学校や教育現場だけの責任や家庭教育の責任だけでは、説明つかなくなります。国やマスコミはゆとり教育の責任にしたいようですが・・・。(続くかも)

学力低下

 先日、通っていた小学校の先生と話をする機会があった。仕事の関係で先生と話をすることが多いのだが、現状を聞けば聞くほどため息が出ます。今の生徒数は250名程度、私のときの半分くらい、学年に1人以上は登校拒否の子どもがいるようです。母親から離れられないタイプが多いようですね。離れるのが怖いのか、ずっと手をつないでいる高学年の子どもがいるそうです。僕らの小学生時代なら男子であれ女子であれ確実にバカにされたと思いますし、そんな、経験をしながら親との距離を考えることが出来たような気がします。また、授業中、話を聞かない、しゃべる、立ち歩くという子どももいるそうです。他の小学校ではそのような子どもが多く授業が成り立たないところもあるとか。学級崩壊ってやつですね。
 よく、ニュースなんかでゆとり教育の罪等の見出しが躍っていて、誰が責任を取るのかみたいな論調が多いのですが、ゆとり教育、以前の問題ですね。総理の発案で偉い人や有名な人が集まって教育なんとか会議が行われているようですが、このような現状を実際足を運んで見にくるような方はおられるのでしょうか?
 個人的な意見として、子どもの学力が低下しても良いと思うんです。学力高くて、ライブドアや村上ファンドみたいな例もあります(高学歴で狡猾にばれないように悪事働いている人間はもっともっといると思います)。学力低くても、なんらかの特技は必ずあるはず。人望がある、場をまとめる力がある、盛り上げる才能がある、いくらでも、良いとこ探して伸ばしていける、そんな教育が本当は必要なのかも知れないですね。(続く)

什の掟

1.年長者の言うことに背いてはなりませぬ。
2.年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ。
3.うそを言うてはなりませぬ。
4.卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
5.弱い者をいじめてはなりませぬ。
6.戸外で物を食べてはなりませぬ。
7.戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。
「ならぬことはならぬものです。」

 いじめが問題になっている中、「什の掟」が注目されているという記事を見つけました。江戸時代、会津藩の学校に行くまでの子どもたちの掟らしいです。詳しいことは検索してもらえば分かるので省きますが、地域とも一体となったなかなかいいシステムだと思います。
 で、思ったのですが、いじめはいけないと掟で定めるということは、裏返すといじめる人間がいたという事ですね。江戸時代の子どもにもいじめはあった、いや、もっともっと昔からいじめはあるだろうし、子どもだけでなく、大人の世界でもいじめる人間はいるわけです。もちろん、この掟からも分かるようにいじめをなくす努力は昔からされていた、しかし無くならない。もしかしたら、いじめは無くならないというスタンスで物事を考える方が、いろいろ見えてくることがあるのかもしれません。いじめがないに越したことは無いが、起こったときはマイナスイメージで見ないで、いじめられた方もいじめた方もプラスにもっていけるような対応が必要じゃないかと・・・。頭の中でもやもやしてる状態なので、考えがうまくまとまったら、また、書きます。

単位問題で思うこと。

 陸上競技トラックの長距離走では参加者が多いと2段階でスタートラインが引かれます。アウト側からスタートする選手は大回りする分スタートラインが前に行きます。もしも、審判のミスでそのスタートラインが規定より前に引かれたらどうでしょう?インコースの選手はやってられませんよね。もし、アウトコースの選手がインコースの選手と最後まで競り合い優勝したとします。レース後そのことが発覚しましたが、失格にはなりませんでした。優勝した選手はどんな気持ちでしょうか?自分ならきっとメチャクチャ悔しいと思う。スタートラインが違うんだから。同じ場所からスタートしたら負けてるわけです。ラインを引く審判が選手の指導者で便宜を図ったとしたら、指導者失格です。
 今、スタートラインが間違っていることに選手達が気が付きました。まだ、スタートまでは時間があります。焦らず気持ちを落ち着けて対処すればきっと良い結果が生まれるはずです。想定外の出来事なんか、社会に出ればいくらでもある。このような事態で前向きに的確な対処が出来ることの方が、難しい数式を解くよりも、大切ではないでしょうか?今回の問題で対象となる高校生には負担が大きく、苦しく困難が続くと思います。それを乗り越えたときは必ず大きく成長するだろうし、また多くの人が応援していると思います。私には何も出来ませんが応援したいと思います。

気象庁vs.カメムシ

 先日、天気予報の3ヶ月予報を見た。今年も暖冬になりそうな予報である。昨年の今頃も暖冬の予報だったと記憶している。一方、カメムシが大量に発生し、そのような年は昔から大雪が降ると伝え聞いた。実際に大雪となり気象庁も予報を訂正した。気象庁ってどのようにして予報を立てているのだろう。私の想像ですが、1の後に0が何個も付くビットの演算能力のあるスーパーコンピューターを駆使し、様々な計算、シュミレーションを行い、私などと比べ物にならないくらい頭の良い人が、その結果や過去の状況などを元に判断しているのではないでしょうか?

 しかし、カメムシには勝てなかった・・・

 気象庁を責めているのではなく、万能だと思っている科学も所詮この程度のものだと思いながら暮らしていくと、少しは気が楽なのではないでしょうか?

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